悔いのない人生を!
本日は「裏マインド」シリーズということで、意識だけ高い系管理職の僕が、ある事をキッカケに最近考えた事を書いていきます。
世の若いインフルエンサーの方々の発信内容を見ていると、まもなく50にもなる大人が、「なんて低レベルなんだ」と逃げ出したいくらい絶望しますが、これが現実です。
嘆いてもしょうがないのでまずは現実を受け止めて前に進みます。
#まこなり社長
その時に頭に浮かんだ事をそのまま書いているので、論理的思考とはかけ離れていますが、とある人間の頭の中を覗き見ると思って参考程度に読んでただければ幸いです。
Contents
小さな棘
突然ですが、皆さんは他人に注意をするのは得意ですか?
時と場合、注意する内容にもよると思いますが、僕はあまり得意ではありません。
むしろ嫌です。
仕事では、あれやこれやと指導しなければならない立場ということもあり、業務内容に直結するような事であれば全然出来るのですが、業務態度というか、人としての在り方というかそうした、いわば絶対的な判断基準がないものに対して、あーだこーだと言うのがどうも苦手です。
自分自身、こうした事を言われるのが死ぬほど嫌いです。
ましてや自分が認めてもいないような、たまたま席次が上というだけの人間に言われるのがホントに嫌です。
と、いったこともあり、「そもそも人に言えた義理じゃないし〜ッ」、というのがまず第一にあるんですけれども。
昨日も、部下の行動で注意した方が良いかな?と思いつつも、でも、自分もやっちゃう時もあるし言うのもなぁ・・と思うことがありました。
それで終われば何も問題がないんですけどねぇ。
でもね、気にはなるんです。
なんなら軽く苛ついているんです。
でも何か言えない。
で、何で言えないのかなぁ?・・というところから色々と考えてみましたので、今回はその内容をお話します。。
#頭の中ワールドへようこそ
#案内役のMONO蔵です
#知らんがな
それは「行為」と「人」どちらに向けられたものか?

まず考えたのは、何に苛ついたのか?ということです。
ある事が気に止まり、何なら軽くイラッ💢として注意しようか?となったわけですが、そもそも自分が苛ついたのは、行為そのものに苛ついたのか、それとも人、その行為を行った人に対して苛ついたのか?
そうすると、原因はもちろん行為にもあるのですが、どちらかといえば人の要素の方が大きいという結論に至りました。
今までの色々と苛ついた事を思い返してみても、その傾向が強い。こと仕事に関しては特に。
もしかしたら、同じ行為でも別の人間であれば気になっていなかったかもしれません。
となると、自分の中のこうしたあやふやな判断基準がストップをかけていたのか?
もちろんやっている行為に問題が無いわけではないので、言っても問題はなかったと思いますが、その場の感情に任せて言ってしまうことは、必要以上にキツくなる可能性がありましたし、何より「嫌いだから、やっている事が気に入らない」となっていること自体が問題です。
注意というより、私的な感情をぶつけるだけではないか?というのが、1つ言えない理由としてある気がしました。
他にも、自分より年配の人であったり、普段から仲が良い関係になればなる程言いづらいと感じることもあります。
「無駄話しをしないで仕事に集中しろ」だとか、生活態度近い様なことに、一歩踏み込んで言うことはどうしても言いにくい。
「その人との関係が壊れるのが怖いからか?」と言われれば、んーっ怖いという感覚ともちょっと違う気がします。
怖いと言うよりかはむしろ、面倒なことに関わりたくないという感情の方が強いです。
わざわざ煙たがれるようなことを言って、自分がその場所に居づらくなるのも嫌ですし、そもそもその場所が自分にとって、自分を傷つけてまで良くしたい環境なのかも疑問です。
その行為が全体に大きな迷惑を及ぼすような事ならさすがに注意しますが、個人の評価が下がるだけの様なことであれば、別にその個人だけが損をすることなので、こちらとしては知ったコッチャないね。というのが本音です。
管理する立場で管理しないのは、もはや責任放棄!?

ただ本音としてはそうであったとしても、現実はそうとばかりも言ってられません。
一(いち)スタッフとしてならそれでも良いかもしれませんが、僕はいま部下を管理する立場であり、それを見過ごして「事なかれ」に徹するのは責任放棄じゃないか?と考えるわけです。
以下自問自答の頭の中です。

いやいや、あなたは管理職なんだから、チーム全体の事を考えるの当然でしょ。
現在のチームが今よりレベルアップすること、効率よく生産性を上げることがあなたに求められていることであり、ただ今の状態を何となく保っているだけでは、何も評価されませんよ。

いやいや、そもそも評価されてどうにかなるんですかッ?
給料が上がるわけでもなく、ただ責任だけが増えて良いことなんか何〜も無いんですよ。
っていうかそもそも「誰が」、「何を」評価するんですか?
あんな人達が、まともな評価なんて出来るわけないし、する気もないでしょ💢
#お察しください

そういう狭い世界で物事を見るんじゃないよ。
この会社で云々ということを基準とするんじゃなくて、世の中をみてもっと自分の市場価値を上げていかないと。

市場価値?
今更転職出来る年齢でもないのに、市場価値を上げろと言われても、納得できないと言うかナニソレ?って感じ。
だいたい市場価値を上げたって、市場にでなければ意味ないでしょ。

それで良いなら良いんですけどね。転職しなくたって、自分で自分が納得できる行動はしていくべきじゃないんですか?
まぁ、そもそも評価なんて相対的なものなのだから、自分の中の絶対的な価値を上げていく作業だと思えばいいじゃないですか。
会社、市場、確かにそうしたものの需要を満たすことは大事ですけれど、その前に自分の中の根源。いわゆる、土台となる絶対的価値を上げていくことは自信にも繋がると思うんですけどね。
それに、自分で思考して、行動することで今見えていない世界の扉を開けることにもなるかもしれないと思いますけど・・。

今、見えていない新しい世界と言われてもねぇ。
言いたいことは分かるけど、自分に都合の良い世界ばかりじゃないし・・。
開けなきゃ良かった扉だってあるでしょ。
あ〜ッ、やっちゃった・・。って
結局、自分はどうなりたいのか?という問いに戻ってくる

自分で言うのもなんですが、僕は特別仕事が出来るわけではありませんが、仕事が出来ないと言われてるわけでもなく・・、何なら「今の立ち位置をキープしてそれなりにやっていく」というのはダメな考え方なのでしょうか。
自分は今まで、仕事が全て!とは思ったこともありませんし、思う気もサラサラありません。
自分にとっての仕事は、「ライフワーク」ではなく「ライスワーク」に近いので、バリバリ仕事に生きるというのは目指す世界ではありません。
#宝くじが当たればすぐ辞めます
ただ、だからといって納得できないものを適当にダラダラとやるというのも嫌なんです。
今の仕事が全てだとはどうしたって思えない、がっ、やるからには「MADE IN 自分」の商品として、関わる仕事のクオリティーには責任を持ってやる。
この両方を適度に満たす感じ位が自分の生き方にはちょうど良いと思うんですけれど、自分勝手な言い分なのでしょうか?
仕事は自分一人では完結するものではなく、どんな仕事であっても、必ず多くの人との関わりの中で生まれてくるものです。
最低限、こうした人達に迷惑をかけないということは絶対守ったうえでということになりますが。
迷惑をかけない程度、この「程度」の程度とは?
ここで一つ問いが生まれます。
この迷惑をかけないという迷惑は何処までを指すのでしょうか?
「このレベルまでは満たしていてね。」の、このレベルの設定は、相手、求める側によって変わってきます。
ただこのレベル、かなり相対的な概念ではあるのですが、世の中、その相手が要求するレベルを満たせなければ、必要とされなくなり淘汰されるだけです。
ですから、どうしてもその場所に自分の居場所を作りたいと思うのであれば、相手が求めるレベル、最低でも相手が納得するレベルで「いる」か、「なる」必要があります。
相手の需要を満たせなければ、価値は発生しないのです。
誰も、1年で壊れる車を何百万も出して買いたいとは思わないでしょうから。
#価値と対価の話しは、過去の投稿をご覧下さい↓
そう考えていくと、結局は会社、上司の需要を満たす事がその会社での存在価値となります。
あとはそこに自分が納得できるかどうか。
一般的にはPCが出来ないよりは出来たほうが良いし、マネジメントが出来ないよりかは出来た方が多くの需要があるのは想像がつきます。
求める人が多ければ多いほどその価値は高まってその対価も大きくなるでしょう。
それは分かるのですが、最終的には、自分がそこを目指すのか否かという自分との折り合いになってきます。
目的を持って、市場価値を上げることを目指すならそれもよいですが、目的もなく価値を上げようとしたところで、必要としてくれる所があるかは不明であり、自分も周りも「でっ?」となるかもしれません。
結局は自分が幸せに働ける、納得して働けるかは必要とされる場所があり、そこで自分の力を発揮し、成長し、更にその場所に貢献することで、更に必要とされる。
そしてそれを実感できる。
そうしたポジティブループに入る事なのかもしれません。
「必要とされる」と「利用される」
ただし、一つ気をつけておきたいのは、「必要とされる」と「利用される」では天地の差があるということです。
多くの人が仕事を頼まれた時に感じる、「面倒だな」とか、「何で自分なんだよ」と思うのはここの違いを感じているからではないでしょうか。
必要とされ認められているというよりも、「仕事をぶん投げられた」、「押し付けられた」と感じてしまう。
必要とされていると思うか、利用されていると思うかで、その後のパフォーマンスやクオリティにも大きな影響を与えます。
#コミニュケーションが大切だということ
#誰に頼まれるかにもよるしね
#誰かに仕事を頼む時は、こうしたことにも注意が必要!
普段捨ててる野菜の皮は、実は栄養の宝庫・・的な話し
ここでもう一歩踏み込んだ問いを1つ。
もし自分が利用され押し付けられた場合、この押し付けられた仕事とどう向き合うか?
断るというのもありますが、嫌なものでも仕事であればやらなければいけない場合もある。
これの取り組み方でも差がつく気がします。
#ピンッ!ときちゃった
このまま、コノヤロー💢と思いながら損だけさせられて終わるか?
損だけさせられるのもムカつくから、コイツラも気づいていない、この嫌な仕事のトロの部分を見つけて頂いちゃうか?
#ピーマンのワタや種は、実よりも栄養たっぷり
#何からでも学んじゃえ精神
同じことをするにしても、意識の違いで得られる結果には大きな差が生まれる気がします。
動かされて終わるか?自ら動くか?

人が行動をする時のことを考えてみて下さい。
大きく分けて2つのパターンがあると思います。
自分から行動する場合と、相手(物)に反応して、それに応じた行動をする場合。
例えば挨拶はどうでしょう?
自分からする場合もありますが、されたから返すという場合があります。
この場合、自分が挨拶するかしないかは相手次第ってことじゃないですか?
相手の行動によって自分の次の行動が決められている。
相手に自分の行動を支配されているのと同じじゃありませんか?
自分の行動を相手が決めるのか、自分がイニシアチブをとって行動するのか。
確かに誰かに決めてもらったほうが楽な場合もあるでしょう。
ただ、せめても自分が好きな事や、ヤりたい事くらいは自分がイニシアチブをとって動きたくないですか?
常に誰かに行動を決めてもらっている人が、いざ自分のがやりたい事に出会えたとき、その時にすぐ動けるでしょうか?
いきなり100メートルダッシュを出来ます?
準備運動くらい必要じゃないですか?
そう考えたら、日々の生活、行動が来たるべき日の準備運動になっているとは考えられないでしょうか?
しかも、そうして日々の行動を習慣化して無意識で動けるようにしておけば、来たるべきその日には何の意識をすることもなく自然と体も心も勝手に反応して動いてくれるんじゃないでしょうか。
確かに納得のいかない事が多すぎるし、何で自分ばかりと思うことはありますが、この「他責思考」を辞めて、全て自分ごと、「自責思考」で生きることは、結局は楽に生きていけることに繋がるかもしれません。
慣れないうちは違和感だらけで、ガッツリ意識しないとすぐにブラックな心でいっぱいになってしまいますが、その度に何度も自分に言い聞かせ、意識のリメイクをしていくことが大切です。
筋トレだって徐々に重りを上げていき、少しずつ高重量の負荷にも耐えれる体が出来上がっていきますし、その過程には必ず筋肉痛という痛みが伴います。
心や意識も同じ。
時には痛みも伴うでしょうが、それは成長するためには避けて通れない過程だと割り切って、人生に悔いを残さないように日々精進していきたいものです。

本などで、「こうあるべき論」など学んでも、実践の場では中々うまくいきません。
無意識に出てくる感情は、今までの学びが何だったのか?と思わせる程ガッカリするものばかりです。
今は有意識でこれを封じ込め、有意識で正しい思考パターンに矯正中です。
いつしかこれが習慣化して無意識に出来るように。
皆さんも、悔いのない人生を送るために行動していること、うまくいかないことなどコメント欄に記載していただけると嬉しいです。
共に悔いの無い人生を目指して!!
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