嫌いな人とは関わりたくない。無駄な執着を手放して心を解放する。

マインド
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MONONOFU

悔いのない人生を!MONONOです。

本日は、「嫌いな人との関わり」についてお話ししたいと思います。

前回もお話ししましたが、世の中全ての人と仲良くできるということは幻想で、当たり前ですが気の合う人もいれば、全くと言っていい程合わない人がいるのが現実世界です。
>>>前回のお話しはこちら

この気の合わない、はっきりと言ってしまえば「嫌い」な人とは、一度も関わることなく過ごせれば何の不都合もないのですが、何故かこの世の中はそう単純に物事が進みません。

職場、学校など、人が集まるところ例外なく「嫌い」は存在し、あまつさえ頻繁に関わらざるを得ない状況であったりします。

「嫌いな人は自分を成長させる存在」、何処かで聞いたことがあるセリフも、心身共に整った状態であれば聞く耳もあるのでしょうが、正に今、「嫌いだ、嫌いだ」と言っている状態の僕らには単なる綺麗事にしか聞こえません。

とはいえ、感情の赴くままに「嫌い」を増長させていった未来が明るいのか?と言えば決してそうではないでしょう。

無理をしてまで嫌いな人間に意味を持たせる必要はないと思いますが、嫌いな人間に対する自身の心の持ちようは意識して向き合う必要があるのではないでしょうか。

共に明るい未来に向かっって、意味ある一歩を踏み出しましょう!

Contents

誰があなたを 幸せ=快(かい)の状態 にするのか

選択 キャスティングボート

部屋の壁全面に嫌いな人の写真を貼り、ずーっとその人間の事を考えて過ごす一日。

考えただけでも気持ち悪く、「どんな気持ちになるか試してみましょう!」と言ったところで、誰もやりたくもありません。
幸せな一日と程遠いということは、誰もが想像つくところです。

私以外の誰かが私を幸せにしてくれる

そんな自分を 不幸(=不快 )にしかしない行為ですが、壁全面に写真を貼るのは極端だとしても、「嫌いな人間の事を考えてしまう」ということについては、おそらく多くの方が、意識がある、ないに関わらず、ついついやってしまっているのではないでしょうか。

確かに目の前に嫌いな人間がいれば、誰だってイラつきますし、不愉快な気持ちになります。
いわゆる 幸せ=快(かい)ではない状態です。

ここで一旦立ち止まって、よく考えてみて欲しいことがあります。
それは、

「自分の幸せ(快の状態)は、誰によってもたらされているのか?」

ということです。

目の前に嫌いな人間がいます。
仮に「その人間が存在する限り自分は幸せになれない」ということであれば、あなたの幸せはその嫌いな人間の存在如何(そんざいいかん)によることになります。

つまりこの場合、あなたの人生の幸福度は、あなたの最も嫌悪する人間がイニシアチブを握っているという、何とも胸クソの悪い状態が生まれまています。

もしあなたが幸せになりたいと思うのであれば、あなたが最も嫌う人間にお縋り(すがり)するしかありません。

キャスティングボートを握るのは自分

当たり前ですが、嫌いな人間が目の前にいたとして、それに対して「何か」を思うのはあなたです。
何かしらの理由があって「嫌い」と思うことも、あるいは逆に「好き」と思うことも、あなた自身が決めて、自らの意思で行なっている行為になります。

思う、考えるということが、自分発信の行為である以上、理屈の上では嫌なら止めるということができるのではないでしょうか?

決して「嫌いを好きになれ」とか、「嫌いだと思わないようにする」ということではありません。
嫌いは嫌いのままでその事について思い続けるのを一旦止めてみる
ということです。

ダイエット中に目の前に美味しそうなケーキを置かれ、食べたくて食べたくてしょうがないのだが、その気持ちをグッと抑え、気晴らしに散歩にでも出かける、そんな感じです。

お腹が空いていることには変わりはありませんが、意識を別にむけることで一旦はケーキに対する衝動や執着は抑えることができるでしょう。

この場合、自分を快(かい)に向かわせたのは自分の意志です。
他の誰でもない、自分自身で不快を取り除いたのです。

難しい、難しくないはもちろんありますが、やるか・やらないか を決めるのは常に自分であり、その決断があなたの 快、不快 を決定しているのです。

嫌いな人間はどうなるべきか

殺意 恨み 嫌い

とはいえ、気持ちの切り替えがそんなに簡単ではないことは百も承知です。
「よし切り替えよう」と思って、簡単に気持ちが切り替わるのであれば誰も苦労しません。

自分が怒りや悔しさ、その他モロモロの感情が入り乱れた気持ちをグッと抑え、何とか気持ちを切り替えなければと思っていても、それを知ってか知らずか、嫌いな人間がのうのうと目の前で生きている様は許しがたいものがあります。

ではその嫌いな人間、一体どうなれば満足するでしょうか?

死ねば満足しますか?
死なないまでも、目に見えて不幸になれば満足するのでしょうか。
その目的達成のためにあなたは何をしますか?

悪しき願いを叶えるためにあなたが失うもの

仮にあなたの嫌いな人間が、「タバコのニオイや煙が、何よりも大嫌い」だったとしましょう。
あなたはその人間が「不快」になるようにと、周りでいつもプカプカとタバコを吸って嫌がらせをするでしょうか?

そんなことをしても、結果として健康を害して大きな損害をこうむるのはあなたです。

嫌いな人間をどうにかしてやりたいという気持ちは十分わかりますが、四六時中、嫌いな人間のことを考えているということは、このように自分で自分を害する為の行為を行いまくっているのと同じです。

「不幸になれ!」その願いが達成されるその日まで、何年でも何十年でもそれを願い続けますか?

快(かい)を得ようとして、結果いつ終わるともしれない不快(ふかい)を延々と繰り返すかのごとき行いは、嫌いな人間のために、自分を犠牲にする行為そのものです。

それはあまりに非効率的であり、絶対に避けるべき愚行です。

何が「今」を、ひいては「未来」を変えるのか?

将来 選択 決断

何度も言いますが、嫌いな人間というのは理屈抜きで本当に腹が立ちますし、「どうにかしてやりたい!」という気持ちは、どうしたって湧いてきます。

こうした自然に湧き上がる感情は、ある意味脊髄反射的なものであるため、それを0(ゼロ)にするのは極めて不可能に近いでしょう。
しかし、それを思い続けるのか、切り替えるのか、または別の感情に置き換えるのかは、自分の意思です。

黒を白へ、一瞬で変えることは難しいかもしれませんが、徐々にでも変えていくことは、常に自分次第でどうにか出来る課題です。
例え出来なかったとしても、少なくともそこに執着し続けることを止めようと意識することくらいはできるはずです。

出来ることは必ず何かある

雨に濡れるのが大嫌いだからといって、雨を恨んで雨そのものを無くそうとしても、その願いが叶うことはありません。
つまり、相手をどうするかではなく、結局は自分がそれを踏まえてどうするかしかないのです。

雨に濡れるのが嫌なのであれば、濡れないためにどうするかを考えることはできます。
傘をさす、傘が駄目ならカッパを着る、それでも駄目なら外に出ない。
考えれば必ず何かしらの方法はあるはずです。

簡単なことではありませんが、そうした「自分の意思で自分の思考をコントロールしてみる」という考え方のプロセスが習慣化すれば、あなたの人生にとって大きなプラスになるはずです。

遠回りのようで実は近道

「嫌いな人間が許せない」その気持ちは全く否定はしません。
ただし、有意識、無意識に関わらず、その気持ちに執着するか否かは、選択して進まなければなりません。

執着し続けることを選択し、相手の不幸を願い続ければいつの日かその相手がどん底に落ちる様を見ることが出来るかもしれません。
が、そこで得られるものはそれを見ることによる一瞬の満足感だけです。

場合によっては、相打ちで自分自身も大きな痛手を負っているかもしれませんし、そう考えれば相手の不幸があなたの人生に及ぼす影響は、その代償に比べればあまりに小さすぎます。
本当にそれが、あなたの人生に望むものですか?

一方で、嫌いは嫌いのみに止めおき、意識の矛先を変え、自分が考え行動することで変えることができる「今」に注力することは、執着から心を開放し、自分の未来を変えることにつながるのです。

それは自分でも気づかないうちに、心の中から「嫌い」を消し去るでしょう。
厳密に言えば、消えて無くなり「嫌い」がゼロになるということではありませんが、もはや意識の外、意識外に追いやっているはずです。

あえて「好き」か「嫌い」を問われれば、断固として「嫌い!!」と答えるのだけれど、普段の暮らしの中では、道端の石ころよろしく意識すらすることのない存在です。

それはある意味において、望んでいた「嫌いなやつをこの世から消し去る」ということになるのではないでしょうか。

 

本日のまとめ

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MONONOFU

嫌いな人間のことを考えないようにすることが可能なのであれば、おっしゃっていることも確かに一理あると思うのですが、現実問題として無理なのではないでしょうか。

仮にできるとしても、相当難しいでしょうし、すごく時間がかかると思います。

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信長公

で、あるか。
毎度同じことを言うことになるが、そう思うのであれば、貴様の好きにするが良い。

いずれの道を進もうと、それが己の決めたことであるならば、その結末は己が責任を持って引き受ける。それだけのことじゃ

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MONONOFU

いやいや、考えてもみてくださいよっ。
毎日毎日、嫌な奴と顔を併せるだけでも沢山なのに、そのうえ苛つくような関わりまで持たされているんですよっ。

「考えないようにするなっ」て言う方が無理ですし、何なら殺意の湧かない日はないくらいです。

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信長公

其方、何か心得違いをしておるのではないか?
ワシは考えるなとは一言も申しておらぬし、むろん「殺意を持つことまかりならん」などと否定してもおらん。

嫌いな人間に対してネガティブな感情を抱くということは、程度の差こそあれ人間として当たり前のことであり、むしろそれこそが人間本来の自然な姿なのではないか とさえ思うておるくらいじゃ。

じゃがのう、「あくまでワシは」と前置きした上で申すが、その人間として当たり前の事も、この信長が目指す「未来の信長」にとって必要なものであるか否かを考えた時には、どうしても必要なものとは思えんのじゃ。
むしろ、百害あって一利のない、今すぐ捨て去るべきものとしか思えぬ。

確かに貴様が言うた通り、自然と湧くこの感情は意識しても中々消し去ることは出来ぬ。
故にワシは一旦湧きでてしまった感情ではあるが、それに気づいたならば意識的に考えるのを止めることにしておる。

出来る出来ないの問題ではない。
何が何でもそうすると決めておるのじゃ。
これは理屈ではない。
何かの道を極めたいと思うたら、それ相応の努力が必要であるように、ワシが目指す世界にたどり着くためには、そこへの執着を捨て去ることが必要であるからじゃ。

出来たか出来なかったかは後からついてくるもの、まずは今出来ることをやるだけである。

それにのぅ、嫌いな人間のことを考え続けるということは、自分の心をその相手にずっと寄り添わせているのと同じことじゃ。
気持ち悪いにも程があろう。
同じ人を想うのであれば、もっと他に想うべき人が貴様にもおるのではないか?

当たり前じゃが、ワシも貴様も人生は有限であり、いつの日か終わりがくる。
もし貴様が、今から「残りの人生の時間割り」を創れるとしたら如何いたす?
嫌いな人間に関わる時間を貴様は用意しておくのか?
貴様の貴重で大切な命の時間割りに、嫌いな人間を想う時間は必要なのか?

答えが「否(いな)」であるのならば、今この時、何故必要のないものにその生命(いのち)の時間を割いておるのじゃ。

楽な方法ではないことは確かである。
しかし、いつまでも己が心を一箇所に縛り付け、しかも「不快極まりない者共に己の人生の舵を握らせておく」などということは断じてあってはならん。

何時までもそのような者共の傍らに、おのが心を留め置いてはならんのじゃ。
一刻も早くその無駄な執着を捨て去り、心を開放し自由になれっ。
出来る・出来ぬではないっ!やるのだっ!
共に悔いのない人生を歩もうではないか。

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MONONOFU

MONONOFUです。 悔いのない人生を目指して、日々奮闘しています。 どうなったら悔いが残らないのか? それすらまだ見えていない「今」を発信しているブログです。

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