
悔いのない人生を!MONONOFUです。
本日のテーマは、「人格と考え方(意見)を分けて考える」です。
好きな人が言う事だからYES!、嫌いな人が言う事だからNO!
こうした考え方は心情的には理解できるのですが、一方で自身の視野を狭め、偏った考え方しか出来なくなる危険性があると思います。
非常に難解なテーマであることは事実で、僕自身、ゴリゴリに「人格=考え方」で捉えている側の人間です。
ですので、「さぁ今日から即実践」と言ってすぐに出来る話しではありませんが、頭の片隅にでも入れておいて、ちょっとずつでも意識していけるようになると、もっと思考の幅が広がっていくのではないかと思います。
一緒に考えてみましょう。
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Contents
考え方が人格を形成するのか、人格が考え方を生むのか?

あなたも経験ありませんか?
仕事などで自分と意見が違う人がいると、何故か自分が否定されたような気持ちになってしまったことが。
相手の言い方にもよりますが、僕の場合そうなってしまうと、「自分とは合わない人」との烙印を押し、心のシャッターを閉めてしまいます。
ひどい場合には、「この野郎っ💢」という感情が芽生え、それが「嫌い」へと進化を遂げてしまいます。
嫌いな人間が発する言葉は、内容のいかんに関わらず全て嫌悪感というフィルターを通して耳に入ってきますから、何を言われようが否定的にしか捉える事ができず、それ以降、相手の発する言葉が自分の胸に刺さることはありません。
相手が職場などで普段から接する事が多く、その人の「人と成り」がある程度分かっている場合は尚更その傾向は強く、その想いはより強固になります。
考えを人格から切り離すことは可能か

人格には、その人間がそこに至るまでの「生き様」が滲み(にじみ)でるものです。
いわば、その人に染みついた生活習慣のようなもので、一朝一夕に変えられるものではありません。
そう考えると、「ある人間の生き様」の結果の産物として「考え方」が生み出されているということですから、その発生源である人格を無視して考えるというのは非常に難しい作業です。
何故、人格と考えを切り離す必要があるのか
人が意見や考えを表現する時、そこに人格、つまりその人の「人と成り」が影響を及ぼすことはよくあります。
例え正しい意見を言ったとしても、「誰が言ったのか」でそれに対する反応が変わってくるのがそれです。
つまり、考え方、意見の価値は環境によって変化するのです。
誰がそれを発したかで、無価値が有価値にもなり、有価値が無価値にもなるのです。
普段サボっていて、自分の事しか考えていない上司が、
「情報を共有し、もっと生産的で効率の良い仕事をしよう」
と言ったところで、
「はぁ💢?おっしゃることはごもっとも。だけれども、お前が言うなっ!!」
といったような反発しか生まれないのではないでしょうか。
こうした場合、相手の人格に対する嫌悪の感情により、本来それ単体であれば受け入れられる内容であるにも関わらず、嫌いな相手由来のものとして心情的に拒否してしまい、その正しい言い分さえも否定してしまうことになるのです。
人を見ずに、考え・意見のみを見ることは可能か
誰が言ったかではなく、何を言ったのか、その考えや意見のみを判断する。
実際にそれは可能なのでしょうか?
結論から言ってしまえば、可能か不可能かではなく、難しいということを理解したうえで、それでも尚、そこに向き合っていくべきです。
例えばあなたの大嫌いな人間を想像してみてください。
その大嫌いな人間が、何かしらの考え・意見を言ったとします。
おそらくあなたは、どこか否定的な感情になり、その考えを素直に受け入れる気分にはならないでしょう。
しかし、その考えをあなたが最も信頼を寄せる人間が言っているとしたら、あなたはどう感じるでしょうか?
もしあなたがそれを非常に価値あるものだと感じるとしたら、それは嫌いな人間が言ったということで本来は捨て去られている価値なわけですから、あなたにとって大きな損失だと言えるのではないでしょうか。
真夏のダウンジャケット
当たり前ですが、真夏にダウンジャケットは着ませんよね。
しかし、夏に必要がないからといって、捨ててしうことはないはずです。
夏には価値がなくとも、冬になれば価値を持つからです。
たとえ今必要がなかったとしても、いずれ環境が変われば何かしらの価値を持つのは「考え」も一緒です。
嫌いな人が言ったから聞かない、自分の考えと違うから排除してしまうということは、まさに真夏にダウンジャケットを処分してしまうようなもの。
自分の可能性をも奪う行為です。
つまり、その価値に気づくためには一旦余計な人格とは切り離して考えてみるべきなのです。
人格と考えを切り離して捉えるために

自分の考えは、自身の過去を教材とした現時点における人生の集大成です。
一方で他人の考えは、他人が歩んできた人生の現時点における集大成です。
他人の考えや意見に触れることは、自身だけでは経験することのできない別の人生を経験しているとも言えます。
自分の考えは、自分の人生における経験のみを拠り所とした、いわば偏見です。
つまり、なにかしら偏った考え方なのです。
この世には、知っているものと知らないものがあります。
知らないものを知り、新たな知見を手に入れた時、あなたから見える世界は広がり、人生はより豊かなものになるのではないでしょうか。
自分が納得できない考え・意見もまた同様です。
自分には無いもの、そうした考えに触れ異質を知ることは、自身のそれまでの考えとの融合を意味します。
元からあるものに、別の物を混ぜるのですから、そこから何か別のものが生まれる可能性があります。
もちろん元のものに吸収されてしまうだけかもしれません。
いずれにせよ、新たに何かが加わるということは、今とは違う何か別の新しいものが生まれるかもしれない、そんな変化が期待できるのです。
誤解がないように言っておきますが、他人の考えを全て受け入れなければいけないと言っているのではありません。
しっかりと中身を消化してその背景やプロセス、本質をしっかりと理解した上で否定するのであれば、否定すれば良いのです。
つまりは、自分が理解できないものに対して、目を背けずにちゃんと向き合えているかが重要なのです。
後で損をしないために
嫌いだらから、知らないからといって、理解しようとする努力を蔑ろにしてはいけません。
それは嫌いだから、面倒くさいといった自分の都合だけです。
目を背けていたものがたとえ今必要のないものだとしても、このVUCK(ブーカ 注!)の時代いつそれが世の中のスタンダードになるか分かりません。
注! VUCK(ブーカ)
一言で言うと「先行きが不透明で、将来の予測が困難な状態」を意味します。
VUCAは、こちらの4つの単語の頭文字をとった造語です。
- V(Volatility:変動性)
- U(Uncertainty:不確実性)
- C(Complexity:複雑性)
- A(Ambiguity:曖昧性)
改めて言います。
自分と違う考えや意見を取り入れる必要はないのです。
必要なのは、それを知ろうとするということだけなのです。
知る機会がありながら、自分の怠慢だけでそれ行わず、後で知らなかったではすまされません。
それはもはや罪です。
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本日のまとめ

今回も大変難しい問題ですね・・。
限りなく絶対無理に近いです。
相手を嫌いな場合、いくらその考え・意見が良かったとしても「嫌い」というその感情を置き去りにしたまま、分けて考えるというのは至難の業です。
人間が行き着ける境地だとは思えません。

貴様はいつも初めから「出来る・出来ない」「難しい・難しくない」といった決めつけをおこなうのぅ。
全てが初めから自分の中で答えが決まっていてるんじゃ、何も悩むことなどあるまい。
貴様は行き着けないと思っているのだから、その通り貴様は行き着けないのであろう。

では、行き着けると思えば行き着けるのですか?

行き着けるかもしれないし、行き着けないかもしれん。
それは誰にも分からぬ。
ただ確実なのは、貴様が「もう無理だ」と思った時に行き着けぬことが決まるということじゃ。
貴様は悔いのない人生を歩みたいのであろう?
それは「今の世界が何も変化せずに時が過ぎること」なのか、それとも「今に変化を起こし、まだ見ぬ世界を見ること」なのか、どちらが望みなのじゃ?

新しき世界です・・。

であるならば、自身の常識の中だけで生きておったのでは何も変わらぬではないか。
常識とはこれまでの人生が創り出した偏見に過ぎぬ。
確かに世の中にはどうしても自分と折り合いがつかぬ者が一定数はおる。
貴様が言う感情を置き去りにしたくないと言う気持ちも分からぬではない。
しかし、貴様が悔いのない人生を歩むために一番に優先し大事にしていることは、その気に入らぬ者に対する己の感情なのか?
それに執着することが望む世界の実現に繋がるのか?
そうだとするならば、それは全ての矢印は己にしか向いていないということではないのか?
あいつは間違っている、相手より自分が正しい、だから聞く必要はないという考えは、気持ちの矢印が常に自分を満足、安心させるためだけに向いており、ますます自分自身の視野を狭くし、狭い世界に閉じ籠らせる行為じゃ。
そうした偏った見方で世界を捉え、いつもと同じように考え、いつもと同じように行動して一体何が変わるというのじゃ。
嫌いな相手を好きになる必要はない。
嫌いは嫌いのままで良いし、受け入れられない考え、意見を受け入れる必要もない。
ただ理解できぬものに対し、嫌い、知らぬという理由で全てを拒絶しそれを知る機会を失うことは、自ら夢の実現を阻んでおるのと同じじゃ。
「貴様が今に変化を望むなら」と敢えて前置きするがの、あとは「やるだけ」なのじゃ。
この世の中に貴様の望みを叶える魔法はない。
本日、貴様は望みを叶えるために何が必要かを知った。やろうと思えば出来ることである。
「知っている・出来る」多くの人間はここまでは辿り着くのじゃ。
しかしここから先、「知っている・出来る・やっている」まではほとんどの者が行けぬのじゃ。
分かっておるのにのぅ。
想いの強さなのか、意志の弱さなのかは分からぬが、楽して事が成就することなどありはせぬ。
自分のつまらぬ感情を優先させ、本当に大切なものを失わぬようにの。
Nobody is Right であるぞ。






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