
悔いのない人生を!MONONOFUです。
「言霊(ことだま)」
一般的に日本においては、言葉に宿ると信じられた霊的な力の事を言いますよね。
声に出した言葉が、現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられていて、「良い言葉を発すると良いことが起こり、不吉な言葉を発すると良くないが起こる」と言われていたりします。
そんな霊的な力が宿るとされている、「人間が発する言葉」。
そこに、発する側の人間の想いが強く込められれば込められるほど、そこに宿る「力」はより強いものになっていくのではないでしょうか?
そしてその大いなる力を秘めた言葉は、旋律という名の「万化響(まんげきょう)」を身にまとい、僕達を包み込んでくれます。
「万化響(まんげきょう)」
完全な僕の造語です。
意味としては、「千変万化(せんぺんばんか)して響くもの」です。
音とは周波数が人間の可聴領域にあるもののことです。
その周波数が、僕達が持つ周波数(いわゆる「気」)と共鳴することで心に響く。
ところが、僕達の「気」の状態は常に一定ではありません。
喜怒哀楽、その時々の心の状態や、経年による経験、時間の経過ともに変わります。
でも、旋律をまとった言葉は、そんな不安定な僕達の「気」に左右されることなく、どんな形にも変化して僕らを優しく包み込んでくれます。
嬉しい時も、怒りに打ち震える時も、悲しい時も、辛い時も、常に傍らにいて僕らと共に歩んでいてくれています。
「心に響く名言集 第2弾」本日も、僕の心に残る「言霊」を紹介いたします。
みなさんの心には、どのような形に変化して響くのでしょうか?
すこしでも皆さんの心に共鳴できていれば幸いです。
では、Let’s listen to the song!
【併せて読みたい】
Contents
正直者が つえをついているよ
遠慮深そうに 裏通りあるいている
信じられるものは 影をひそめている
疑わしい奴ばかり 表通りさ
碑(いしぶみ) 長渕 剛 作詞:長渕剛 作曲:長渕剛

まだ若かった頃には、この言葉達が持つ意味、奥深さを理解できておらず、大して心にも響いていなかったなと思います。
「万化響」
まさに千変万化するごとく、今の僕の心にはかなり染みる言葉です。
あなたの周りにもいませんか?
口先だけの空虚な綺麗事を並べて、実際は何も産み出さない輩が・・。
そしてそんな奴らが重宝される職場。
その影でコツコツと真面目に働いている人間なんて、いてもいなくても同じ存在として扱われ、都合よく使われるだけです。
「頑張っていれば誰かが見ている」
そんな言葉は嘘っぱちです。
誰も見ていません。
君は この先 どこへ行くのか
あてのない 旅は いつまで続く
何かに汗を 流してみても 何かがちがう
だからとて 愛に背けば 孤独に堕ちてく
こんな職場で僕はこの先どうなってしまうのか?
いつまで、こんな満たされない心を抱えたままモヤモヤと過ごすのだろうか?
そんな想いが自分を焦らせます。
自分の心に生まれた「疑念の種」を誤魔化そうとして、無関係を装ったところで、一度生まれた不信感はそうたやすく拭えるものではありません。
そしてこの感情はあくまで個人の主観であり、職場を支配する絶対的な主観ではありません。
この環境を「悪」とする者がいれば、「善」とする者がいるのが世の常です。
不満を心に抱え、その想いが強くなればなるほど、それを「良し」とする者や、「良し」としないまでも、「悪」と感じない者に対し、自分とは相容れない存在であると認識していまいます。
周りが「敵」にしか見えなくなる瞬間です。
いつも心に 激しさ もって
動かぬ 碑(いしぶみ) 胸にだきしめ
といだ 刃(やいば)が おれるまで
まだまだ まだまだ まだまだ・・・・・・
立ち上がれ!

「誰も自分を分かってくれない」
「頑張っても誰も見てくれていない」
だからといって腐ってしまっていては、かまってもらえずにダダを捏ねている子供と一緒です。
- お前は誰に認められたい?
- 「こんな職場」といいながら、「こんな職場」に認められたいのか?
- 誰かにこの職場を変えて下さいと願っているのか?
- 自分ではない誰かに「どうにかして下さい」と言っているのか?
- 一体お前が望んでいるのは何なのだ?
自分の心に問うてみれば、安全地帯に身をおいて、ただの評論家になっていた自分が透けて見えます。
自分がどうしたいのかもはっきりせず、何処かの誰かが何となく居心地が良いように変えてくれるのをただ待っているだけ。
嫌なら辞めることだって出来るだろうに、年齢や環境を言い訳にグダグダとその場に留まっているだけ。
そんなことが自分が望んだことだったでしょうか?
職場に残る、離れるは別問題であり、それはその時が来たら考えれば良いのです。
・現状が嫌なら抗え!まずは抗え!
・自分が納得するまで行動しろ!
・矢が尽き、刀折れるまで戦え!
・お前ならやれる!
そんな事を言われている「気」が、今の僕にはします。
誰かが言った ゛がまんするんだ゛
僕は叫ぼう ゛がまんできない゛
苦労をすれば 報われる
そんな言葉は 空っぽだ
スクラップ THE BLUE HEARTS 作詞:真島昌利 作曲;真島昌利

「我慢をして得られるもの」、「我慢をしなければ得られないもの」とは一体なんでしょう?
それは「今すぐに得ること」は出来ないのでしょうか?
僕も入社当時よく言われた記憶があります。
「頑張っていれば、ちゃんと誰かが見ているから、少しぐらい嫌なことがあっても我慢しろ」と。
一見もっともらしいですが、僕はこの言葉から何の言霊も感じません。
「頑張れば誰かがみている」は、誰も見ていません。
正確に言えば、他人は誰も見ていません。
見ているのは自分ただ一人です。
「嫌なことがあっても少しぐらい我慢しろ」は、我慢したところで得るものは一つもありません。
もちろん、目的達成のために何かを我慢するということはあります。
痩せるために、甘いものを控える的な。
この場合の我慢は「理不尽なもの・道理の通らないものに対して」です。
会社勤めをしていればある程度仕方のないこともありますが、所詮他人の評価によってのみ報われる、報われないの判断があるとするのならば、それは本当に空疎なものです。
それではそこに、自分という一番耳を傾けるべき存在が全くいないではありませんか。
僕は、「誰かが見ている」より「誰もが見ざるを得ない」存在、そして「我慢して誰かの意に沿う」より「自分が嫌なことは嫌だと言える」存在になりたいです。
10本の指で10本の価値あるものを
なぞる必要などどこにもないさ
ダサイ クサイは誰のための言葉?
肝心な事は俺がどうするかって事さ
明日へ向かって 長渕剛 作詞;長渕剛 作曲;長渕剛

「善」」と「悪」、「失敗」と「成功」、「価値あるもの」と「価値のないもの」。
相対性のこの世の中では、「何かしらの概念」を定義したその瞬間、一つの例外ものなく、相反するもう一方の定義が生まれます。
そして、僕達を悩ませるその多くは、この相反する2つの概念がもたらすといえます。
言い換えるならば、「こうであって欲しい理想」と「眼の前にある現実」。
「理想」があるがゆえに「現実」を意識し、「現実」を意識するからこそ「理想」が生まれる。
そしてこの2つのギャップに苦しむことが往々にしてあるのです。
そんな時は一度立ち止まって考えてみましょう。
その「現実」は本当に苦しむほど卑下すべきものなのでしょうか?
その現実に評価をくだしている価値観は一体誰の価値観でしょうか?
誰もが「失敗」より「成功」を望みます。
「成功」が「善」で、「失敗」」が「悪」、おそらくは深く意識したこともないその概念は、本当に正しいと言えますか?
いや、もはや「正しい」を論じる事が既に、その正しさの押し付けになっています。
正しいことも、間違ったことも、所詮、何処かの誰かの一つの意見です。
そこに価値が有るかも、無いかも誰も決めることが出来ません。
あるのは、目の前の事象に対してあなたの心がどう感じているのか?ただそれだけです。
「こんなことをしたら、皆に笑われるのではないか?」
他人にとっておかしな事でも、あなたにとって「やりたい、やる価値のあるもの」と感じているのであるならば、やればいいではありませんか。
まだ起きてもいない「他人から笑われる」という妄想に縛られて、自らの欲求を制限するなど、もってのほかです。
あなたを一番笑っているのは、あなた自身なのではないですか?
それが「正解」なのか「失敗」なのかは分かりません。
でもそれを決めるのはあなたです。
「失敗」も含めた一連の流れをあなたが「正解」だと感じることができるのであれば、また、そこに価値を見出すことができているのであれば、それ以上の「正解」はこの世には存在しないのです。

以前に、信長様から、「人生とは瞬き程の一瞬の物語であるのだから、うだうだと迷っておらずに好きに生きた者が勝ちである」と教わりました。
しかし、であるとするならばこそ、一瞬の出来事であるからこそ、「失敗」はなるべく避けたほうが良いのではないのですか?

で、あるか。
貴様の考え方は2つの点で予とは異なっておる。
一つは、「失敗」という概念についてじゃ。そもそも、貴様がいう「失敗」という定義は何を根拠としておる?
よもやネットに書いてあったなどど言うことはなかろうのう。
貴様がこの人生において、何度か挑戦した経験則から導き出した「自らの現時点での答え」として「失敗」を語るのではあればよい。
しかし、経験もしておらぬことを「皆がいっているから」「それが常識だから」というのであれば、貴様は人生を損しておるぞ。
皆が失敗したからといって、貴様も失敗するとは限らんではないか。
もしも「既に世の中の「正解」と「不正解」は決まっている」とするのであれば、もはやこの世の中に追い求めるものなどない。
貴様は誰かが決めた「正解」を集めておるのか?
よいか、「不正解」とされていたものの中に「正解」を見出すことが新しき価値を産むのじゃ。
そういった意味で「不正解」は「無意味」を意味しないのじゃ。
この「失敗」に対する考え方が2つ目の相違点じゃ。
瞬きほどの人生であるからこそ、誰かが決めた「正解」の中に生きるのではなく、自らが創り出す「正解」を追い求めるべきであると予は思うがのぅ。
「不正解」とは「正解」の原石なり。磨いてこそ輝くのじゃ。






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