
悔いのない人生を!MONONOFUです。
- 人に嫌われたい!
- できるだけ多くの人に憎まれ、恨まれたい!
なんて人、いないですよね。
よほど特殊な人でもないかぎりそんな事は思いもしませんし、仕事など何かのコミュニティーに属していれば余計に、「嫌われないように」と気をつけるのではないでしょうか。
毎日自分を嫌っている集団の中で過ごすなんて、考えただけで地獄ですものね。
とはいうものの、じゃぁ嫌われないように気をつけて振る舞った結果が天国かと言えば、必ずしもそうとは限らないのではないでしょうか。
- なにか自分でもよく分からないけど気分が晴れない
- 本当はそうは思わないけど、皆がそう言うから仕方なく・・
「本当は・・」そんな気持ちを抱えつつ人は知らない間に他人の意見や評価を気にし、本当の自分を押し殺して人生を過ごしている時があります。
周囲と仲良くなりたい、対立したくないと、守りの態勢に入ってしまうのは仕方がないことです。
が、そうした一見大人のように見える振る舞いは、場の空気は乱さないかもしれませんが、確実に真綿で首を締めるが如く自身の心を傷つけます。
もちろん無理に場の空気を乱してでも自分を押し通せというわけではありません。
しかし自身の心の中に、「嫌われてもいい」という覚悟を少し持つだけで、いつも無意識のうちに抱えていたプレッシャーやストレスがスッとなくなるのもまた事実です。
今回は、嫌われてもいい覚悟を持ち、自分らしさを取り戻すコツについて、ご紹介します。
Contents
嫌われるとはなんぞや?

他人から嫌われる理由は様々、それこそ上げだしたらキリがないくらいに無限にあるのではないでしょうか。
そう考えると、無限にある理由一つ一つ全てに対処しようとすること自体ナンセンスですし、そもそも自分以外の相手がどう感じるかをコントロールすることが不可能なのですから、「これをすれば嫌われない」といった100%の再現性を持った対処方法なんて何処にもないということになります。
では全てが相手任せのギャンブルかと言えばそうでもなく、気をつけるべき点は有ると思います。
この無限にあるであろう嫌われる原因ですが、大きく分ければ2つのタイプに分類されます。
それは、「残念な人」と「異物な人」です。
これだけでは「?」ですよね。
説明します。
残念な人とは
残念な人というのは、一言でいうと「自分を満たすために人を不快にさせる人」です。
- 人のやる気を奪う言い方しかできない
- 無駄に存在をアピールしてくる
- 人のあら探ししかせず、すぐ否定から入る
- 自己評価が無駄に高い
- 無責任ですぐ人に丸投げする
- 同調圧力をかけてくる
- 人の時間を平気で奪う
- 口ばかりで行動が伴わない
- 気に入らないことがあるとすぐ態度にだす
- すぐマウントを取ろうとしてくる
- 強いものには巻かれ、弱いものにはやたらに強い
- すぐに群れ、1人を攻撃して満足している
などなど、あげだしたらキリがありません。
共通しているのは、そこに他者に対する敬意は一欠片もなく、あるのは私利私欲のための自己満足のみ。
その人そのものの人格が嫌われるケースです。
異物な人とは
一方で、異物な人とは、「世間一般の当たり前から外れた人」です。
当たり前から外れた人というと、非常識な人と思われがちですがそうではありません。
ここでいう「世間一般の当たり前から外れる」とは、「イノベーション」つまり、「何か新しいことに挑戦すること」であったり、「停滞した状態から変革をおこすこと」、または「自分の中にある常識の範囲外」という意味です。
「新しいこと」や「変革」はそれ以前への否定や疑問を呈することから始まりますから、当然そこには反発が生まれますし、人は自分がどうしても理解できないものに対しては、まずは否定から入る傾向があります。
この場合、嫉妬や誤解に不安といった相手の感情が、「嫌い」という形として現れているため、自分個人ではどうしようもありません。
「残念な人」のように、人格そのものが否定される「嫌い」というよりは、周りがついていけず理解されないとか、意見が対立して認められていない状態に近いと言えるでしょう。
嫌われている人と理解されていない人

つまり嫌われる原因には、自分の内面に原因がるものと、自分以外の受け取り方に原因がある2つがあると言えます。
自分の内面に原因がある場合、他人に嫌われたくないのであればやる事はただ一つ。
秒速で改善することです。
人生過ごした年月が長ければ長いほど、改善するにも何が駄目だったのか検討もつかないかもしれませんが、
- 同じことをされたら自分はどう感じるのか?
- これは誰のための行為か?
- この行為によって相手はどう感じるのか?
他人と接するときは、そうした意識を持つだけでも今よりはマシになるでしょう。
異物は取り除かれるべきか
では「異物な人」はどうしたら良いでしょうか?
皆に理解してもらえるように振る舞えば良いでしょうか?
人は変化を嫌う生き物です。
周りに起きる変化がすべての人を幸せにするかと言えばそうではありません。
その変化により一部の人のみが益を得る場合もありますし、全員が益を得る場合もある。
もちろん全員が不幸になる場合だってあります。
どうなるのか分からないのであれば今のままが良い。
ましてや自分の頭で理解できないものであれば、なおさら「今」に固執します。
つまり、異物は自分の中の平和を乱すもの。
極端に言ってしまえば、自分の理解を超えたものが自分の存在を危機に陥れていると感じ、全力でこれを排除しようとするのです。
覚悟を持って生きる

残念な人は、自分勝手でわがまま、相手の気持ちも考えず嫌がることを平気でやってしまい、それに対する自覚もありませんが、異物な人はそうした事はちゃんと自覚しています。
ただその考えや、それに基づく行為を周りに理解してもらえない。
その理解してもらえないものを、一人ひとりに問いて回るべきでしょうか?
ケース・バイ・ケースでしょうが、やること全てに周りの理解を求めながら生きていたのでは逆に疲弊してしまいそうです。
それに、それぞれ立場や考えの違う人間ですから、全てがそれを受け入れるということはありません。
ではどうしたら良いのか?
ずばり、誰からも嫌われないという幻想を捨て、「嫌われてもいい」という覚悟を持つことです。
嫌われる覚悟を持つということは、嫌われてでも自分を貫けということではありません。
覚悟を持つということは、嫌われたらどうしようという不安な気持ちを捨て去ることです。
覚悟がもたらすもの

嫌われてもいい覚悟をもつということは、相手の存在を過剰に意識せずに付き合えるようになるということです。
相手の顔色をうかがわずにすむことで、多くのメリットを得ることができるかもしれません。
客観的に物事が見える
嫌われてもいい覚悟を持つことで、客観的に物事が見えるようになります。
嫌われることはネガティブなイメージがとても強く、多くの人は自分を押し殺してでも「嫌われないように」と振る舞ってしまいます。
結果、冷静に物事を捉えることが出来なくなってしまうのです。
「嫌われるかも」という不安を拭い去ることにより、客観的に物事を捉えることが出来るようになり、本質が見えるようになります。
信念を貫けるようになる
嫌われてもいい覚悟を持つと、自分と意見が対立する人がいても不安になりません。
人間が100人いれば100通りの考えや意見がありますから、時には自分の意見に賛成してもらえずに落ち込んでしまうことは有ると思います。
しかし嫌われてもいい覚悟を持つことで、仮にネガティブな意見があったとしても、敵を作らないようにと、相手の顔色を気にして言いたいことも言わずに引き下がるようなことは少なくなるはずです。
結果、自分の想いに正直になれます。
自立できる
集団生活のように調和を大切にしている生活の中では、調和を乱す異物は好まれませんので、その中で生きようとすれば必然的に本当の自分を隠してしまうことがあります。
もちろん集団生活を営むうえで周りとの調和を保つことはとても大切なことですが、それも度が過ぎれば、本来自分が持っている本当の魅力は薄れていくでしょう。
「嫌われてもいい」と覚悟を決めると、その集団の一員でいることへのこだわりがなくなり、自由に自分の存在をアピールすることができます。
また同時に、人に頼ることもなくなるので、必然的に自立できるようになります。
周りがやっているから、自分もそうするという発想は、失敗した時の責任転嫁で嫌われたくない気持ちの表れです。
しがらみを捨て去ることにより、人に頼らない自立した自分の人生を歩むことができます。
本日のまとめ

自分らしく生きていくということも大切だとは思いますが、人と関わらずには生きていけないこの世の中で、人からどう思われているのかということも大切だと思うのですが・・。

で、あるか。
そう思うのであれば、それを大切に生きれば良いではないか。
何も問題ない。

でも、嫌われてもいいという覚悟を持てと言っているではありませんかっ。

貴様は何故そのように、全てを画一的におさめようとするのだ?
貴様が他人からの評価に重きをおくのであれば、それを大切すれば良いと言うておるだけではないか。
そのようじゃから、誰も何とも思ってもおらぬことに勝手に怯え、「こんな事をしたら嫌われるかもしれない」などと自分の考えが、さも世の中の常識のように、自ら自分の首を締めるようにしか生きられんのじゃ。
よいかっ。世の中には他人からどう思われるかを過剰に意識するあまり、本来の己を押し殺してしまい、その事が心の傷となって苦しんでいる者がおる。
故に、その苦しみから解放されたいと願うのであれば、ほんの少し「嫌われるならば嫌われても良い」という気持ちを持ってみよと言っておるのだ。
「異物」とは読んで字の如く、異なる物。
己や集団にはない考え、行為、つまり、己や集団のなかにあって普通ではないものを人は全て異物とみなし排除したがるのじゃ。
しかしじゃっ。以前にも言うたが、人は皆違う。
それぞれに立場があり、またそれに基づく正義ある。
誰もがその立場を失うことを恐れ、また、その立場を守るがために正義を唱え戦うのは必然である。
異物を排除したがるものにも、そのものの立場、正義があるのじゃ。
意見の対立、考えの違いとは、いわば正義と正義の対立であると言える。
誰かの正義が正しいと思うのであればそれもまた良し。
なれど己の正義が正しいという強い想いがあるのであれば、誰に憚る(はばかる)ことない。己の正義を声高に叫べばよいのじゃ。
自分の心の中にしっかりとした信念、仮にそこまでしっかりとしたものではなかったとしても、問(とい)に対する解(かい)があるのであれば、何ら恐れることはない。
異物であること、異物になることを恐れてはならんのじゃ。
無論、それで全てがうまくいくとは限らない。
それにより傷つくともあるであろう。
しかし誤解してはならんぞっ。
それぞれに立場があり、それに基づく正義がある以上、例え相手の正義が勝利したとしても、すなわちそれが絶対の正義とはならん。
今回は様々な要因から相手の正義がたまたま通った、それだけなのじゃ。
自分の立場を表明するということはとても勇気がいることじゃ。
しかし自らの立ち位置をしっかりと示すからこそ、それに賛同するものも現れるのである。
貴様がどういう人間かも分からぬうちは、賛同もなにもできぬからのぅ。
真の自分を分かってくれる人間は、真の自分をさらけ出したときにしか現れぬものよ。
そうは思わぬか?






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